「対話」を握らされたらもう一方の手には棍棒を持たねばならない

サイエンスアゴラ「対話」に関するWSで、対話の場と政策決定の連結をテーマにしたグループに参加。途中で抜けたためややモヤモヤ感が残る。よってここにメモ。
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出口既定の対話の場に座らされるのであれば、対話以外の手段を持たねばならない。おとなしくさせるための「対話」に科学技術コミュニケーションの手法が知らぬ間に収束している(?)ことに若干の違和感を感じる。

現状の間接民主主義のシステムの間を埋める形か、それとも現状のシステムを変えるところまで議論の範疇に加えるのか。ひとまず従来の手法の改善という立場にするにせよ、対話と政策はスケールが明らかに異なる。対話は小さく、政策は巨大。ちいさな対話の場に参加する一部の人間が巨大な政策を決める正統性がどこにあるのか。

しかしデモグラフィック属性による無作為抽出はステークホルダーの複雑性を無視した雑な手法。選んだ結果(参加者)を誰にとっても完全にすることは不可能であり、参加のプロセスの説明可能性を上げることと、対話の場の継続的実施でしか近似的納得解は得られない。

対話が政策的成果に結びついていないというが、本当か。議員への陳情、議員との集会、ロビー活動など科学技術コミュニケーション以外の文脈で対話はおこなわれているのではないか(それが科学技術コミュニケーションの言う対話と異質な部分があるにせよ。いやでもこのWSの話題設定での「対話」とはむしろ近いような気もする。この対話に対する万能的有用性へのあくなき期待みたいなものそのものが(ry。

そういった従来のシステムに埋め込まれた対話の場との接続の可能性を探ることなしに、(科学技術コミュニケーション的文脈発の)アドホックな対話の場にばかり指向していても、政策側にも市民側にもその本気度は疑われる。

ごくごく小さな個人的な経験でしかないが、自治体で研究者や市民のアイディアや能力、専門性を求めている事例は意外とそれなりにある。やはり正統性という問題はあるにせよ、市民や研究者がかかわる、対話的につくる実験的行政というかたちでの政策へのゆるやかな連結はあるのではないか。

やはりこれに関しても実は科学技術コミュニケーションやら対話の名でよばれていなくても、すでに存在しているのではないか。似て非なるものかもしれないが、そういった「埋め込まれた(埋もれた?)」対話のシステムの適合性の理解と再発明が、対話と政策への連結を果たす、地味だが地に足のついた方法ではないだろうか。

でなければ対話より棍棒だ。