前から行きたいと思っていた大田区の穴場、「日本帝国小銃射的協會跡」へ自転車でひとっ走り行ってきました。
射的といっても縁日の射的ではなく、今でいう「射撃」のことです。
目的地はJR大森駅から南へ約250mほどの421号線を西へ入り、闇坂を上った先にあります。
深い切通しの坂はまさに闇という雰囲気。
住所は大田区山王2丁目14。
石碑より「親の目が 光る山王 非行をふせぐ」の方にまず目を奪われてしまった…
日本帝国小銃射的協會は1889年(明治13年)*に設立され(日本ライフル射撃協会HPより)、この場所には1889年(明治22年)から1937年(昭和12年)ごろまで射的場があったそうです(大田区HPより)。
ですが、この石碑はいつどういう経緯で立てられたのかは不明。
裏にも何も書かれていませんでした。
現在射的場は大森テニスクラブになっており、石碑はその駐車場の一角にあります。
奥に見える建物が大森テニスクラブです。
クレーコート3面と人工芝コート6面の計9面を備えています。
ですが不審者扱いされるとアレなのでコートの写真は撮りませんでした…
googleマップで距離を測ってみると、大森テニスクラブの長辺の距離は約180mです。射撃場としては短い距離です。
より大きな地図で 日本帝国小銃射的協会跡 を表示
ちなみに石碑のある場所は小高い岡の峰にあたっていますが、かつて射場があったテニスコートの部分は窪地のようになっていて、周囲の住宅や道からすこし低い場所にあります。
これは山や斜面を射撃方向に備えて流れ弾を防ぐという射撃場一般の特徴に当てはまります。
ところで私、大学時代にライフル射撃をやっていて、日本帝国小銃射的協會の後身たる日本ライフル射撃協会にも所属していました。そんなこんなでこの地に興味を持ったわけです。
圧縮空気で鉛の弾丸を飛ばすエアライフル(50m)と、火薬を使ったスモールボア(SB)ライフル(50m)をやっていましたが、SBの免許を取得するために行った小樽の射撃場も採石場跡のような山肌にむかう場所にありました。
閑話休題
SBよりも大口径のラージボアライフルの場合(大型獣用の猟銃や、おおよそ軍用の銃に相当)、競技距離は150-300mですが、余裕を持たせる必要があるので、ピストル射撃もしていたにせよ当時どんなライフルで射撃していたにせよ、ライフルで180mというのは十分な距離とは思えません。
と思って調べると、大森テニスクラブのページ「クラブの歴史」に興味深い記述がありました。
それによると、1937年(昭和12年)の移転の際、敷地の2/3は分譲地にしたということです。
したがって、実際の当時の射撃場は現在の大森テニスクラブの面積の3倍はあったということになります。
UG2-Home Page「旧道行脚・射的場」に掲載されている大正6年の地図を見るとなるほどそのようです。
また意外なことに、射的場移転後にテニスコートができたのではなく、まだ射的場があった大正の初期に軟式用1面、硬式用1面の計2面が設けられ(その後5面に拡張)、それが移転後も残って現在の大森テニスクラブのルーツになっているとのことです。
私がかつて使用していた宮の沢屋内競技場は、屋内のSB射場を備えていましたが、射場はテニスコート3面のスペースにもなっていました(もちろん同時に使用するわけではない)。
テニスと射撃の意外な関係。
どちらも個人競技で、歴史的にはハイソな方々が初期に導入、そして平らな広い面積が必要という共通点があるからなのしょうか?
たった2例で作られた時代も全然違いますが、テニスと射撃の関係にまで空想が広がる史跡探訪でした。
【*備考】
協會の設立年と経緯についてのweb上の情報にはばらつきがある。
これは大森射的場の設置年と協会の設立年にずれがあるためかもしれない。
・1899年(明治32年)に明治天皇の御下賜金200円を基金に東京府荏原郡大森村に土地を購入し日本帝国小銃射的協会が設立(旧街道行脚 射的場より)
・1888年(明治21年)に東京共同射的會社と射的場は大森の山王に移転し、日本帝國小銃射的協会となった(文京区射撃協会より)
・1882年(明治15年)に東京共同射撃会社(のちの日本帝国小銃射的協会)が設立(コトバンクより)
ネット情報だけに頼らずきちんと調べないといけませんね