『ゴジラ-1.0』を見たときから『オッペンハイマー』の公開を待ち望んでいましたが、ようやく3月29日に公開されました。荒木さんは残念ながらすでに離札したため、4月4日に4名で鑑賞することになりました。今回は字幕版なので、マデルさんも十分に楽しめます(前回は申し訳ない…)。
入り口の前には以下のような看板が。そこまで配慮しなければならない内容なのか?と疑問におもいつつ劇場内へ。
3時間という上映時間を感じさせない内容と演出はさすがノーラン監督です。オープニングから圧倒的な映像と音楽で、これが真の表現としての映画であるということを強烈に示しています。二つの時間軸が前後しながら進む物語は、歴史的な背景や登場人物を知っていれば、その流れは理解しやすいでしょう。しかし、知らなくてもそれぞれのシーンの展開で目を離させないため、それほど負担はありません。常に不安や期待を喚起させる音楽が響き、耳も離せない。画面がまったく派手ではない諮問会であってもそれは同様です。
世の中には、この作品が原爆の悲惨さ、オッペンハイマーの罪と責任を描いていないという批判もあるようですが、それはあたらないように私は思いました。作品は徹頭徹尾、オッペンハイマーが見た世界(そしてストローズが見た世界)を描いています。これが意図的なフレームであることは、すぐに鑑賞者に伝わるでしょう。第三者や神の視点からのシーンはありません。これは、オッペンハイマーが見た世界はこの画面のように基本的に狭い範囲である、ということを示すことで、彼を批判しているように思えます。
原爆被害を映した記録映画を見るシーンでも、その映画自体は画面には写りません。写るのは、それを見るのをやめたオッペンハイマーです。これは原爆被害を直接描くことを避けることで原爆を肯定しているのではなく、むしろ逆に、オッペンハイマーが核の被害から目を背けていることを、画面の構成とオッペンハイマーの行為から強烈に批判しているように私には思えました。
もちろん、このようなフレームを使うことで原爆被害を直接描くことを巧み避けた、現在のアメリカ社会が受容可能な核兵器批判に丸めた、という批判も可能でしょう。特に後者は米国で興行的に成功をおさめるためにも必要で実際必要な方策だったのかもしれない、とも考えられるかもしれません。それでも、政治的に巨大で科学的に革新的な核開発と、戦後の赤狩りと個人間の諍いという両者を対比させることで、それらがどうにも愚かしい行為であったということを描いていると解釈することも可能でしょう。
それにしても俳優陣が豪華。というか見ている最中に気づかず、エンドロールで、ロバートダウニーJr?、ケネスブラナー? え、いたっけ?誰を演じてた?? ストローズ!、ニールス・ボーア!となったのでした。アイアンマンのマッチョな富豪が、猜疑心の強い髪の薄くなった爺さんになっていた… あとパンフレットを見てから、戦後米国の科学技術政策の中心となったヴァネバー・ブッシュも登場していたことを知る。どこで出てた…
なんてことを映画を見た後、遅くまでやっている8 ricefield cafeでだべりました。そしてこの会はマデルさんのお別れ会でもありました。科学技術コミュニケーション研究に取り組むためにフィリピンから日本にやってきたマデルさん。またいつの日か会いましょう、ということで夜の札幌駅北側でお別れをしました。