北8西1に最近できた「さつきた劇場」で上演された『民衆の敵』(イプセン原作)を研究室メンバーで見てきました。種村剛さんのお勧めです。
種村さんとは兼務しているリカレント教育推進部で同僚ですが、リカレント部は新規のリカレント教育プログラムとして、演劇的手法を用いた共生社会実現をサポートする人材育成プログラムを立ち上げています。中心はCoSTEP時代から一貫して演劇を用いてきた種村さんです。このプロジェクトでは札幌の演劇関係の方と共同しているのですが、今回の『民衆の敵』はその札幌座の皆さんによる作品ということもあり、種村さんに「これはまさに科学コミュニケーションですよ!」とお勧めされて見に行くことにしました。
『民衆の敵』は、とある田舎の温泉町で、温泉が汚染されていることを発見した医師ストックマン(温泉の附属医師であり、温泉運営の役員の一人)が、それを実兄であり町長に報告するも、もみ消し同然の対応をされたことから端を発します。ストックマンは記者や印刷会社の応援をうけて大々的にその不正を明らかにしようとするも、問題の深刻さをしった記者らは手のひらを返して町長側につき、ストックマンはさらに憤る・・・というあらすじになっています。
基本的にはかの有名な技術者倫理ドラマ「ギルベインゴールド」と同じく内部告発ものと言えるでしょう。私は見る前と途中までは、科学的事実をもみ消そうとする当局やそれに迎合する民衆を批判する内容なのかな、とおもっていたのですが、無策で突っ走るわ愚民思想をむき出しにした発言をするわでであれよあれよいう間に話をこじれさせていく医師を見て若干絶句・・・
単純に科学者に肩入れできる内容でもない。かといって民衆側に問題があると批判できる内容でもない。あるいは科学者に肩入れできないと思ってしまうのはイプセンが批判する衆愚ということなのか? 民衆に肩入れできないと思えばそれは社会をしらぬ狭量なエリートということでやはりそれはイプセンが批判する者なのか? それとも書き手の意図を探って理解しようとすること、他者の意見で容易に掌返しするものこそ愚かな多数だということなのか?などなど実によく考えさせる話でした。
科学者が見た場合と行政担当者が見た場合によってまた捉え方はかわるでしょう。また時代によって解釈はかわりそうです。特にポストトゥルースという言葉で説明される現在と、「市民」を若干理想化していたとも言える20年前では、受け取り方も違うでしょうし、作り手の重心も変わりそうです
ということで原作ではどのように書かれており、今回はどのような脚本・演出だったのかを理解する必要があると思い、岩波文庫版を購入しました。巻末の解説によると、イプセン自身に衆愚思想的な面があったとか。