科学コミュニケーション学会設立へ?

18日、19日と2日連続で東大弥生キャンパスで開かれた「21世紀型科学教育の創造2010: 科学コミュニケーションのグランドデザイン」に出席しました。

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正直この会がどういったものかよくわかっていませんでしたが、2003年から継続的にワークショップを行っているそうで、科学技術コミュニケーション活動の草分けといったところです。

初日はまず午前中に3講演
津村啓介氏(衆議院議員・前内閣府大臣政務官)
小川正賢(東京理科大)
有本建男(JST社会技術研究開発センター長)
そうそうたる方々です。津村さんは科学技術コミュニケーションに熱心と聞いていましたが、確かに熱意は伝わってきました。

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午後は4テーマごとに部屋に分かれてワークショップ。
私は「大学における科学技術コミュニケーション」に参加しました。
情報提供の時間が長引いて、あまり提示されたテーマについて議論はできませんでしたが、同じグループの方とは情報交換ができて貴重な機会となりました。

二日目は午後から参加し、ワークショップの総括セッションを聞きました。
そこで衝撃の情報が。
この会は今年度で終了で、来年の秋から冬をめどに科学技術コミュニケーションの学会(あるいは協会)を立ち上げるとのことで、その立ち上げ文が出てきました。

そしてその内容について檀上と会場席でやり取り。会の目的ってこれだったのか?
初日のワークショップはなんだったのだろうか? ワークショップでの議論は特に反映されていないように思えました。
であれば立ち上げ文の文案検討を通して、科学技術コミュニケーションのこれからを考えるという内容にしたほうが、目的が明確になってよいと思ったのだが・・・

まぁそうしてしまうと収集がつかなくなるかもしれませんが、初日と二日目のセッションを聞いていて、多少これからのこの会の「科学技術コミュニケーション」に疑問を持ちました。これでは何もかわらないのではないか、と。

セッションでは2030年の科学技術コミュニケーションをテーマに話をしていたのですが、思い切った話がありません。
「一般」へ科学の楽しさを伝える活動、科学教育、科学館・博物館における科学技術コミュニケーション、そして研究者によるアウトリーチなどはもちろん重要で、私も好きですが、ほかにも科学技術コミュニケーションとその人材が求めらている分野はあるのでは?

上記の楽しさを伝える、文化的な活動としての科学技術コミュニケーションとして、「科学を文化に」という言葉も聞きますが、何をめざしているのか正直よくわかりません。
文化を人間の知的活動の蓄積とするなら、科学は間違いなくすでに文化です。
科学は身近ではない、というかもしれませんが、身近ではない文化なんていくらでもあります(これを言い出すときりがないので今回は言葉足らずですがここでやめておきます)。

「大衆文化」「ポップカルチャー」「消費文化」としての科学ということでしょうか。
だとすれば、やはりもっと異なる業界の人々を招き入れないとダメではないでしょうか。
他の「文化」と渡り合うクオリティを目指すなら、お金を貰い、作り出すことができる仕組みが必要です。
私達のような大学や研究所にいる理系研究者だけでは明らかにどう考えても無理があります。
ご縁があってたびたびおつきあいしている某発見チャンネルの方はいらっしゃっていましたが、やはりそちらの分野の合流も手薄かと思います。

一方で立ち上げる「学会」では、研究の推進や学会誌の作成なども行うことを検討しているとのことでした。
現在「科学技術コミュニケーション研究」というものはまだないと言ってよい状態で、現在科学技術コミュニケーション研究を行っている主だった方の学問的な背景としては、科学史、倫理学がメインで、一部情報工学、社会学などもいらっしゃいます。

しかし、大半の方は科学技術コミュニケーション研究を行っているのではなく、それぞれの理系の専門研究を行いつつ、科学技術コミュニケーション活動を行っているのであって、専門的に科学技術コミュニケーション研究を行えるような訓練はなされていません。

私自身生物学から科学技術コミュニケーション研究に移ったわけですが、理系と文系では書き物からしてかなり毛色が違います。何を目的とし、そのためにどのような対策を講じ、得られた結果の何を根拠に、何を論じるのか、といったことも結構わけがわからなくなります。

そもそも、他に確固たる職になっている研究がある方々が、活動としてではなく、全く違う新たなる研究を行う余力と意欲があるのでしょうか。
そういう方もいらっしゃるでしょうが、それだけでは楽観的に過ぎると思います。
理系の人が科学技術コミュニケーション研究を行うだけではなく、社会学、経営学、経済学などの分野の方々を引き込むことが重要に思えます。現状ではそれらの分野の方々に充分食い込んでいるようには思えません。

逆に言うと、科学技術コミュニケーション研究などというものはモード2的な活動であって、科学畑の人のみによって新たなディシプリンを作れるようなものではなく、従来のディシプリンにそれぞれある学問の合従連衡によってはじめて存在するものでしょう。
ですので科学技術コミュニケーション研究を行うには、既述したように多様な学問分野との連携が重要に思えます。

話はすこしかわって、研究者のアウトリーチについて。
アウトリーチについてはセッションでも議論になっていましたが、本質的には現在の研究者と研究資金、そして研究資金供与者の関係を変えない限り、限界があると思います。

現在の研究資金のほとんどは、税金が配分されたものです。

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 ■旧来のお金・研究者・研究成果の流れ
旧来、研究者はその科学的成果は専門分野間で循環させ、同時に報告書という形でのみ役所と「対話」し、直接的に国民(この言い方はなんだか気持ちが悪い。政治家が国民という言葉を使うことはあっても研究者は国民という言葉は使わないのではないだろうか)とのコミュニケーションはなされていませんでした。

これまでは研究成果は研究者コミュニティに(いずれは社会に)、書類は役所に、でよかったのでしょうが、科学技術が社会に与えるインパクトが大きくなり、科学技術体系も複雑化、不確定になり、さらに、いわゆる「民主主義」が進むとそうではなく、直接的な説明責任が求められます。

いわゆる「科学技術コミュニケーション」が必要になるというわけです。

今求められているアウトリーチは国民への発信・対話とされています。
国民は税金を国に収め、研究者は国から研究費を支給されます。
そして研究者はその資金によって研究だけではなく、国民に直接アウトリーチをするということになります。
つまり、研究者は研究費の対価として、研究成果だけではなく、アウトリーチとしての情報を提供するという形です。

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■「国民との対話」で生じる流れ

しかし、税金という形で確かに国民からのお金で研究を行ってはいますが、実質、研究者に見えているのはお金を分配する文科省なりの役所です。
研究者は研究を行う人々ですし、アウトリーチで出される情報もタダではありません。
なんでもそうですが、価値を交換する相手というのが明確でなければ、その質は低下します。

そう考えると、これまでと違う、国民と科学者の間のお金の流れも作ることが、国民の科学技術リテラシーの底上げ活動としての科学技術コミュニケーションを実質化することになるのではないでしょうか?

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■新しいお金と情報の流れ

小口でも多くの人からお金を集めれば結構な金額になります。特に基礎研究ではこのような方法もあるのではないでしょうか。
集金のためには研究者と資金提供したい人とのマッチングのための仕組みが必要です。そういうのないのかなと思っていたらありました。
ただし政治バージョンです。

Polineco(ポリネコ)

解説ページには以下のように書かれています。

>政治にもどかしさを感じていませんか。
>その原因は、投票以外に政治に参加する方法がないからではないでしょうか。
>そこで右図のように、政治課題ごとに政策パックの区分けを行い、そこからどんな人がどのように課題を捉えてい>るかをクラスターとしてまとめることで、いままでにない政治参加の仕方が実現すると考えました。
>現在の日本を取り巻く問題には、舵取りの補助エンジン的な仕組みが必要とされます。
>この仕組みが、あなたと作りあげたいポリネコです。

もちろんポリネコでは政治資金を献金することを直接目的にしているわけではありませんが、投票以外による政治参加と、納税以外による科学参加には相同性があるように思えます。

上記の私の妄想システムは、もちろん行き過ぎると短視眼的だったり、怪しげな研究がはびこったりするかもしれません。
しかし、あらたな仕組み、産業を生み出す、そのための学問として科学技術コミュニケーションを考えない限り、科学技術コミュニケーションは単なる科学教育で終わるのではないかと思います。