原発災害をめぐる「科学者」の社会的責任

日本学術会議・哲学委員会 公開シンポジウム「原発災害をめぐる科学者の社会的責任 ~科学と科学を超えるもの」に参加しました。
主催が日本学術会議哲学委員会、日本哲学系諸学会連合、日本宗教研究諸学会連合という点に非常に関心をもったからです。

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会場は東大本郷キャンパス法文2号館。

13時開始で、挨拶のあと、5名のパネリストが順に20分ほど講演しました。
パネリストは以下の通り。

・唐木英明(元東京大学アイソトープ総合センター長/獣医薬理学)
・小林傳司(大阪大学コミュニケーションデザイン・センター/科学哲学、科学技術社会論)
・押川正毅(東京大学物性研究所/理論物理学)
・鬼頭秀一(東京大学新領域創成科学研究科/環境倫理学)
・島薗 進(東京大学人文社会系研究科/宗教学)

唐木先生がいわゆる「原発擁護派」でただ一人の参加。
関連分野からは押川先生。物理学が専門で、放射能汚染の問題について懸念を発信されています。
小林先生はSTSですから、宗教や倫理、哲学からは鬼頭先生、島薗先生、そして司会の金井淑子先生(立正大学文学部/倫理学)となります。

少し遅れて行ったら会場は満席だったので、ビデオ中継している隣室へ。
これじゃ家でUst見ているのと同じでは・・・失敗。

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発言の要旨はw_alaさんがまとめられています。ありがたや。
→togetter 日本学術会議・哲学委: “原発災害をめぐる科学者の社会的責任”公開シンポジウム

唐木先生はリスク評価は科学者によるが、リスク管理は科学だけでは見積もることはできなく、国民や政治が必要となる、とまぁもっともなお話。しかし例によって喫煙リスクと比較するというのが気になる。喫煙リスクと放射線リスクでは責任の所在も、対抗策の選択性も全く異なるわけで、この発言はリスク管理にまで踏み込んでおり、先の発現と矛盾しているのでは?

小林先生はいつものトランスサイエンスの話、ゼロリスクを求める市民像は神話であること、どのようにして失敗した時にも納得できる社会的仕組みをつくるかが課題とのこと。

押川先生は横浜の広報誌に掲載された「横浜市の放射線量は心配するレベルではない」という意味の唐木先生の見解について、これが専門家として適切な発言だったのか、との疑問提示。また、そもそも専門家の見解が正しかったのかどうかの検証が必要とのことで、ご自身の関連分野として自らのこととしてお話されている様子でした。

鬼頭先生は水俣などの公害をひきながら、「被害」というのは単なる病理学的なものではなく、客観的に被害を総体としてとらえると、排除されてしまう「被害」があるといったお話。

最後の島薗先生は、放射線被害について。興味深かったのは、放射線被害のデータは不完全であるとの指摘でした。「放射線被曝の歴史」(中川保雄、1991)で米国の調査団は、原爆投下約3ヶ月より後のデータを切り捨てているとのこと。

後半は会場からの声もいれて全体討論。
途中で司会の金井先生がヒートアップして自分には一寸何が何だかわからなかった・・・

唐木先生が集中砲火を浴びる場面もありました。
その発言の是非は別として、このような場に出てくるのはある側面で科学者の責任を果たしていると思います。
(まぁ同じ人ばかり出てくるというところに、問題が属人的なレベルに落とされてしまったり、発言の幅が狭まって発言側も受信側も身動きがとれなくなったりと大きな問題があるのですが・・・)

全体討論は白熱してはいましたが、少々物足りなさも感じました。
私としてはこのシンポジウムが哲学や宗教関連の研究者が主催しているということで、これまでの類似の講演会とは異なる視点で科学者、あるいは哲学者・倫理学者・宗教学者の責任について語る、ということを期待していました。
しかし、放射線障害に関する話や、科学者(どちらかというと当事者)の話になっており、従来のシンポジウムと同じような内容でした。

今はまだ哲学や倫理の語りが大きな声になる時ではないのかもしれません。
ではいつその力が求められるのか、という疑問はありますが。
一番印象的だったのは、科学者である押川先生の内省を込めた、そして実行を伴う言葉でした。