討論型世論調査国際シンポジウム

慶応大三田キャンパスで討論型世論調査(DP)の国際シンポジウムがあり、元祖DPメンバーも来日するというので参加してきました。

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東工大のある大岡山は雪でしたが、慶応大のある三田は小雨でした。

シンポジウムのタイトルは「討論型世論調査による熟議民主主義-世代を超える問題を解決できるか
入口で資料一式を頂きました。
慶応大が藤沢市で実施した年金に関するDPの資料が4冊、北大が札幌市で実施したBSEに関する資料が一冊です。

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講演は以下の4氏
・Alice Siu (Center for Deliberative Democracy at Stanford University 副所長)
・柳瀬 昇(駒澤大学法学部准教授/慶應義塾大学DP研究センター事務局長)
・Robert Luskin (University of Texas at Austin 准教授)
・James Fishkin (Center for Deliberative Democracy at Stanford University 所長/教授)

アリス氏の講演内容は、先日北大でモデレーター研修を受けた時に聞いたお話と概ね重なっていました(参照:DP見学記(その1:モデレーター研修)。

■藤沢市での年金DP
次の柳瀬先生は藤沢市で行った年金に関するDPについて概要を解説。
この年金DPは、日本初の宿泊あり・全国規模のDPとして実施されました。
2011年2-3月に3000人に質問紙を送付し、回収率は71%。全体討議は5月28日に実施し、参加者は127名。
開催前に東日本大震災が起き、開催について議論したが実施したそうです。

参加者の構成は性別、年代、地域、職業、意見もおおむね母集団と同じ傾向とのことでしたが、これについては単純集計しかしていないので、多変量解析などでより詳細な分析を行うべきでしょう(とはいえ、後述しますが、DPでは正統性を担保するのは統計的に正しい集団の抽出だけではないので、ここにばかり目を向けるというのも違うのでしょう)(追記:追記も参照)。

討議後は以下の変化がありました。
・議論をへて「積み立て方式」の賛成が半減
・消費税増税については賛成が増加
・年金制度に対して信頼する人は14%、政治についても20%増加
・各世代の年金をめぐる回答にあまり大きな差はない
・意見のばらつきは討議をへて減る傾向にあった
これらから、知識を持っていなかったが、討議をへて理解を深め、意見が変化したと考えられる、と解説していました。

知識を得て正しい判断をするようになったというのは、おそらく少し端折った説明でしょう。
他の御発言も踏まえた私の勝手な解釈ですが、知識だけではなく討議を通した参加者や制度への信頼感の上昇も影響を与えているように思えます。

配布資料を読むと、宿泊や交通の手配やお金の管理、問い合わせの受付、さらには保険料や通信費の私費負担など、非常に多くの作業があったことが脚注に書かれており、やはり実施主体はかなり大きな負担を背負うことになるようです。
DPを誰が、どのお金で実施するかは、正統性の問題と共に大きな問題でしょう。

■DPの意義
フィシュキン氏は、民主主義の方法としてのDPの意義について講演。
社会契約を変える民主主義の手法として、競争的民主主義・エリート討議・参加型民主主義(国民投票)・討議型民主主義があるが、主流となっている国民投票は合理的無知のなかで行われるという大きな問題がある。
また、投票権を持たない将来世代に変わって、将来世代の課題を今の世代が決定するというずれがある。
この世代間にまたがる問題としては、年金、環境、憲法改正が挙げられるが、これらの問題について、様々な世代間の討議を行うDPは解決手段となりうる。とのことでした。
対象の問題として、必ずしも「世代間の問題」という点にDPの意義を収束させる必要はないのではないか?と思いましたが、いかに合理的無知の状況を脱し、参加型手法を実質化するか、という点がDPの目指すところであり、重要なところでしょう。

■パネルディスカッション
パネルディスカッションではさらに以下の3氏も参加しました。
 田村 哲樹(名古屋大学大学院法学研究科教授)
 三上 直之(北海道大学高等教育推進機構准教授)
 曽根 泰教(慶應義塾大学DP研究センター長/教授)

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幾つか興味深い議論についてピックアップ

・DPの制度的正統性について
DPはよくデザインされているが、参加していない人が納得するのかどうか。DPの役割が大きくなればなるほどその正統性が問題になる(田村)。

無作為抽出は重要な方法だが、プログラムの透明性が高めることがまず重要。DPのテーマとなる分野の専門家について、利害関係者をすべてリストアップし、それぞれ、あるいはその代表者にアドバイザリー委員への参加依頼のために声をかける。そしてそれを公表する。実際に参加しなくても、なぜ声をかけなかったのか、という批判を受けなくなる。
また、単なる世論調査ではなく、実際に政策にインパクトを与えようとすることが重要。高い費用をかけているという批判をうけることがあるが、それに対しては意義を十分に説明することで回避できる(アリス)。

代表制民主主義は、選挙運動のため劣化しており、DPはそれを改善する可能性は大きい。しかし代替方法になるかというと、それには躊躇がある。選挙は自分も参加しようとと思えばできる。しかし無作為抽出ではそれはできない。DPをなんにでもつかうことには抵抗がある(ラスキン)。

DPで選択を間違ってしまったらどうするのか、という質問だが、議論に間違いはない。その決定より良い選択肢もありうるかもしれないが、議論を経た決定であることが重要。たとえ専門家の意見と異なっていても専門家の情報を理解した上での決定が尊重されるべきだ(フィシュキン)。

・意見の変容について
政策について考える機会を提供するのがDP。変わったかどうかのみを見るのではない。どの程度意見が極端なのか、集中しているのか。グループ討議において、これまでの結果では75%の確率で意見がある方向に向いた。これは小グループでの討議の影響だろうが、一方で極端化することはなく、サンスティーンが言うところの意見の分極化は起こらなかったと言える(ラスキン)。

政治的な議論では世代間の問題は話し合われにくい。DPの意義は意見が変わることではなく、世代間で異なる意見があること、小さくても意見が変わることがあることをすくいとる仕組みを提供すること。そして自分の意見が他者をかえることができることを知ることが意義だ(アリス)。

DPの10か月後にインタビュー調査をおこなったところ、意見は当初の見解にもどっていた。ただし程度としては半分程度。一方知識は変化がなかった。DPの直後に起きた変化にも意義はあるだろう(ラスキン)。

・陪審員制度とDP
米国では陪審員制度の経験がDPの基盤になっているか。また両者の違いは。議員は落選する等の責任があるが、DPはない。その課題は(会場)

陪審員は全員で判決を出さねばならないが、DPはその必要はない。プロセスが大きくことなる(ラスキン)。

DPに対する批判の多くは陪審員研究から来ている。陪審員はクローズな場での議論だが、DPは公開の場で行われ、社会的圧力がある。また、陪審員は話し合いの影響を専門家から受けているが、DPはモデレーターも専門家も影響を与えないように設計されている。両者はそれぞれ異なる目的をもった方法であり、DPも完成形ではないが、DPのやり方が陪審員制度の改善に役立つかもしれない(フィシュキン)。

・トランスサイエンスとDP
瓦礫処理の問題など、科学的合理性と社会的判断が必ずしも一致しない場合もある。このような問題に対してもDPは対処できるのか(会場)

まさにDPでやるべき議論だろう。そのためにBSEでDPを実施した。科学的合理性のなかにはかなりの不確実性がある。そのため中立的な見解について徹底的に調査した上で議論するDPは有効で意義があるだろう(三上)

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DPは、プロセスを開示した上での議論を経て出された各人の決定を、最大限に尊重すると同時に大きな責任を求める、徹頭徹尾民主主義的な手法なのだと改めて思いました。
そのためにはやはり制度的な正統性をいかに説明するかが、大きな負担を負うことになる実施主体の設定と共に大きな問題のように思えます。
大学は行政や私企業とは別に、ある程度独立的な立場をもち、大学がDPの実施主体となるのは筋はあるとおもいますが、昨今の日本における「信頼性の危機」が起きている状況では、より慎重な設計が求められるでしょう。

DPの制度設計や意図について主催者は明示できているか、参加者はどうとらえているかを評価するための調査を、DPの議題に関する調査と同時に行うべきなのかもしれません(海外ではすでにやられているかもしれませんが)

フィシュキンの『人々の声が響き合うとき : 熟議空間と民主主義』がロビーで即売されていたので、終わったら買おうと思っていたらすでに撤収されていた・・・
本屋さんで買って勉強してみようと思います。

【2012.3.3追記】
今さら下記文献を発見。
日本における討論型世論調査の有効性と限界―道州制をテーマにした試行実験を事例として
渡瀬正興、坂野達郎(東京工業大学)