科学技術史特論2018-2 デュアルユース概論

大学院授業「科学技術史特論」。学生さんにデュアルユース関連の本を読んで発表してもらう授業ですが、2回目はまず私が基礎ということでふたつの文献を元にお話しました。

用いたのは拙稿「デュアルユース研究とRRI : 現代日本における概念整理の試み」科学技術社会論研究 (14) 134-157 (2017)と、“The Handbook of Science and technology studies (4th ed)” (2017) の第33章 “Knowledge & Security”です。量が多いので駆け足。

 

まず「デュアルユース研究とRRI」で、戦後から近年までのデュアルユース概念の変遷を米国を中心に紹介しました。大別すると、ひとつはより古い概念である、技術の二面性を利用し、促進する軍民両用性という意味での「デュアルユース」。これはスピンオフ(軍→民)・スピンオン(民→軍)からさらに発展した概念で、半導体開発を軍民で行うVHSIC計画(1980年~)などが一つの事例と言われています。つまり国際的に熾烈な競争がなされる基盤技術開発を如何に効率的に行うか、という背景があったわけです。さらに冷戦後は軍事費削減と効率化をめざしたデュアルユース政策がとられます。研究費の占める割合が国よりも企業の方が多いという現状は、経済効率性のドライブから必然的にデュアルユースに向かうと言ってもいいかもしれません。促進的と書きましたが、一方で、自国以外に使わせないという抑制的な意味でのデュアルユースも存在していました。制度として冷戦期はCOCOM、冷戦後はワッセナーアレンジメントがあります。

もう一つのデュアルユースの意味は、抑制的な意味を含み、日本語では用途両義性、英語ではmisuse, abuseとも書かれる概念です。古くは遺伝子組み換えと問題でアシロマ会議でも言及はされていますが、大きく取り上げられたのは9.11後の炭素菌テロ、そして2011年の鳥インフル論文です。この新しい「デュアルユース」はテロ、バイオセキュリティの文脈で言及されることが多く、安全保障の対象が国家に限らず団体や個人、さらに戦時から平時へと連続している状況が反映されています。

では日本における「デュアルユース」概念の広がりはどうなのか。大学を中心に見てみると、2015年からの防衛装備庁による安全保障技術研究推進制度がやはり社会的な話題になっています。しかしそれ以前の2013年からはImPACTがあり、さらに2004年からJSTでデュアルユース研究が行われています。これらは「安全安心科学技術」という名で呼ばれていました。これらはいわゆる兵器研究ではありませんが、安全保障、セキュリティに関わる技術であり、今日の安全保障に関する状況を考えれば見落としてはならないデュアルユース研究と言えるでしょう。しかしこの流れは「軍民両用研究」に批判的なアカデミアからも見落とされており、むしろ「用途両義性」に関する議論が中心でした。そして防衛装備庁の制度が始まると、それに後追いで対応し、2017年度の学術会議の声明・報告ではさらにデュアルユース研究ではなく軍事研究と資金源という狭い範囲に議論の対象を絞り込んでいったのです。

 

続いてSTS Handbook。こちらでもデュアルユース概念を簡単に紹介しつつ、その概念自体の問題やセキュリティ、秘匿の現代的状況、そしてそれらを研究する上での問題点などを簡単に紹介しました(しかし重い本だ…物理的に…ハンドブックというかなんというか…)。

デュアルユースという概念がそもそも曖昧だ、という話はあちこちで言われていますが、日本においては、ふたつの「デュアルユース」の重なり(軍民両用性と用途両義性)、そして軍と民のどちらかに事前には定まらないという両用性、この二つの曖昧さからくる混乱、すりかえ、デュアルユースジレンマならぬデュアルユースディセプションとでも言える状況が起きているように思います。概念の曖昧さ、混乱はその対応を誤らせるということはSTShandbookにも”A web of prevention” でも言及されています。まさに日本がその状況なんだなぁ…

 

さておき、この鵺のような、両頭蛇のような「デュアルユース」をいかにつかまえておくか。「包丁は料理もできるし人も殺せる」という素朴な包丁論や、「海外ではデュアルユースは当たり前」という出羽守から一歩先を考えられるか。安全保障とデュアルユースという極めてプラグマティックかつコンセプチュアルな問題は、どちらに傾いても本質を取り逃がしてしまうでしょう。この授業で少しでもデュアルユースの姿を捉える事ができればと思います。