ReDURC研究会+@札幌

4月15日と16日の2日間、メンバーとして参加している研究グループ「ReDURC」のミーティングが札幌で開かれました。

1日目午前中

午前中は、一部メンバーと滝野霊園の頭大仏を見に行きました。過去の研究プロジェクト「ISLE」でもやっていた、研究会と同時にアートを見に行くというエクスカーションです。

「札幌で何か無いか」とリクエストをもらっていたのですが、ぎりぎりになって急に思い出したのが滝野霊園の頭大仏。滝野霊園はモアイやストーンヘンジがあったりと、札幌市民的にはキワモノスポットです。しかし、かの安藤忠雄が大仏殿を作ったことで、ただのキワモノからどのように変わったのか、私も行った事がなかったため今回急遽行くことにしました。ま、こんなことでもないと行かないのです。

残雪を頂く灰色の山々を背景にした頭大仏。絶妙に顔が見えない。ドーン・・・ドーン・・・と恵庭の陸自演習場からの砲撃音が響き謎空間をさらに演出。
圧巻の内部。大仏は安藤忠雄以前からあり、そこに大仏殿が作られた

エントランスを通りぬけてようやく見える大仏様の顔、後光のように光る開口部と壁面のパターン、自然に声を押さえてしまう反響。計算し尽された空間に、正直圧倒されました。私は正直、建築をあまり好みません。本来、人間生活中心・持続性中心であるべき建築が、設計者中心・コントロール主義になっている建築がしばしば見受けられるためです(私の主義・思い込みでしかないが)。しかし、こういった信仰のための建築は、むしろ設計者中心主義が、設計者・訪れる人・空間において矛盾なく合致するケースなのかもしれない、と認識を新たにしました。

1日目午後

午後は全メンバーが集合。毎月オンラインで会っていますが、対面は12月の学会ぶりでしょうか。北大にて私がCoSTEPの紹介をしました。

詳細はこちら→CoSTEP「ReDURC研究会でCoSTEPを紹介」(2023.4.23)

 

2日目午前中

翌日はホテルの会議室にてReDURCの今年度計画について議論をしました。学会発表や報告書作成など目白押し・・・ 今年度はデュアルユースを修士研究でやる佐々木さんもいるので双方によい形にしてアウトプットを増やしていきたいですね・・・

立派な看板
曇天からの雨模様の札幌
手製本された貴重な冊子

メンバーに配布された冊子「デュアルユースのまなざし」では、デュアルユースのとらえ方が印象的な文章とグラフィックでまとめられていました。白とグレーと黒を基調にして、白黒つけられないデュアルユース問題をうまく表現しています。冊子も凝っていますが、オンライン版はアニメーションになっています。おどろおどろしいアプローチではなく、こういった「まなざし」がデュアルユース問題の理解や学習には重要でしょう。

 

2日目午後

昼食後、時間に余裕のあるメンバーで、札幌芸術の森美術館へ「札幌美術展 艾沢詳子 gathering―集積する時間」を見に行きました。昨年度修了した修士の坂本さんがインタビュー調査で大変お世話になったこともあり、艾沢さんも会場にいらっしゃるかもしれないという絶好の機会もあり、今回の研究会で最初からエクスカーションとして組み込んでいました。

艾沢さんとは入り口で早速お目にかかることができ、要所要所でじっくりと作品や制作活動についてお話を伺うという非常に貴重な時間を頂きました。

《Pulse’22》入り口で迎えてくれる「小人ちゃん」。通常の小人ちゃんと異なり気泡緩衝材が裏に貼られているため、コラグラフ作品にも見られるスポットパターンがうっすら見える。
私が最も衝撃を受けた作品。雪原の向こうにある真っ黒な森を幻視した。

 

今回の展示で、初期の銅版画、コラグラフ、そして近年のインスタレーションを通して見ることで、その変化と一貫した表現を理解することができました。私が感じた一貫した特徴は、モノトーン、影がつくる絵、繊毛的線・突起、点、集合性、触覚、湿度・・・といったところでしょうか。小人ちゃん関連の作品を見ると、「かわいい」「幻想的」とシンプルに受け取ってしまいがちかもしれませんが、単にそれに留まらない「生き蠢いているリアリティ」があるように感じます。

《part of Earth’23》 艾沢さんから解説していただきながらという贅沢な鑑賞
《Where have you gone?Where will you go?》艾沢・青木広宙・中坪淳彦による作品
《Relic snow》 中庭に展示された作品。芸術の森で伐採され、組まれて一冬を中庭で越した枝に咲いた「花」

例えば中庭に展示されていた《Relic snow》は「花」ですが、これはスケキヨ状態の「小人ちゃん」でもあるわけです。構造を反転させることで、イメージや意味を反転させる。あるいはもとから二重の意味をもっていた小人。そういった固定的なキャラクターに限定されない性質を一連の作品がもっているからこそ、リアリティがあるのかもしれません。

切られた枝はまだ生きており、芽吹き始めていました

 

いつもの研究とはまた異なるケースで「デュアル」に触れ、その意味を感じられたような気がします。